恥というものがわからない自分
さて、唐突ですが僕はおそらく抗うつ薬の副作用でEDです。性機能が正常ではありません。
これをブログで書くことに特に抵抗はありません。恥だとも思いません。顔も名前もわからない不特定多数に知られたところで僕個人にはつながらないということもありますが、もともとこういうことに対して恥だという感覚が自分にはあまりありません。
で、職場で同じようにうつ病になった先輩に、EDになったみたいなんですと話してみました。すると、先輩は小声で「ああ、なるもんやで。必要なら薬取り寄せれるサイトとか紹介してあげるよ」と親切に教えてくれました。
で、別の場面で男性上司にEDになったみたいなんですよーと笑い話にしていたんです。で、〇〇先輩に話ししたら薬取り寄せられるサイトを紹介してくれるらしいですと言いました。
この時点でわかる人はわかると思いますが、自分のことだけを笑い話にするのは良いにしても、先輩を巻き込んでしまっています。
しかし、恥という概念がわからない自分にはそれがいけないことだと気づくのにかなり時間がかかりました。
なぜなら、子供の頃毎日のように母親が晩御飯で他人のあまり知られたくないようなことや失敗を笑い話を話していたのです。
これを聞いて育った僕は他人の失敗は話のネタに使っていいと勘違いしたまま大人になりました。
未だに話していいことなのか、それはだめなことなのか判断できないときもあります。ストレスが強いときはわかっていても話してしまうようなことさえあります。
発達障害もよく似たエピソードを持つことがありますが、全く違うものだと思います。
おそらく、僕の認知が完全にずれてしまっているのだと思います。本来最も小さい規模の社会である家庭はもっと大きい規模での社会活動のルールを学ぶ場でもあると思います。
そのような場で母親が母親の役割を放棄しストレスの発散に夕食の場を使ったことが原因なんだとは思います。
家庭が家庭としての機能を果たしていないのです。
本来食事の場でどうあるべきかを学ぶ、また楽しみながら食事をする。日々それをしながら自然と様々なことを学び社会で学んだことを使っていく。そういう場面のはずなのです。
僕はそれを学べなかったことにより、食事の場面での適切な会話の内容の選び方、また他者との食事が苦手である用になりました。そして未だに他者の秘密や自分の秘密にしておくべきこととオープンにしていいことの区別が付きません。
周りが気を使ってくれる場合のほうが多いです。まあ、あとはオープンなタイプの人ということにしているというのもありますが、そうしないと僕は社会で存在できないのです。
今回のこの事で、こうしてまた僕は職場という社会の中で彼は少し変だ、人の秘密を簡単に話してしまう、彼には任せられないと存在しにくい環境になっていくでしょう。
そうして良くて職場の配置転換願い。場合によっては辞職願を書き、また違う環境へ逃げるしかないのです。
コミュニケーションを学ばなかった自分が悪いのですか?
うつ症状の調子が良くなるとフラッシュバックを起こして、またうつ症状の悪化に向かう
抗うつ剤が効いて調子良くなるとフラッシュバックでこのようなことを思い出したり、今までなんとも思っていなかったことに気づいたり、自分がおかしな人間であるとどんどん確信してきます。
治せるなら治したい。
でも、その前に復讐を。と思う自分を常に抑えながら、必死で前を向けと自分に言い聞かすのです。
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